インドネシア政府が進める「無料栄養食(MBG)」プログラムが、全国的な混乱に直面している。栄養改善と教育支援を目的に始まったこの国家的プロジェクトで、相次ぐ食中毒事件が発生。政府は調理場運営部門(SPPG)の一時閉鎖という異例の措置に踏み切った。背景には、制度の拡大速度に対して現場の衛生管理体制が追いつかないという深刻な構造的問題が指摘されている。
ジョグジャカルタ特別州のグヌンキドゥル県では、今月2校で児童の中毒事件が発生。ピヤマン第3公立小学校とウォノサリ州立イスラム中学校第4校の生徒が相次いで体調不良を訴え、原因とされたSPPGが2カ所閉鎖された。中毒症状を呈した児童の保護者であるボウォ氏は、息子の話として「牛乳とご飯のみを口にし、果物は食べていない。牛乳が少し臭かった。その後すぐ嘔吐した」と語った。しかし、牛乳を飲んでいない子も中毒症状が出たとして、原因の特定は困難とされた。
国家栄養庁(BGN)によれば、2025年1月から9月までの間に全国で70件の食品安全事件が発生し、計5,914人が中毒被害に遭った。主な原因は大腸菌、黄色ブドウ球菌、サルモネラ菌など、いずれも基本的な衛生管理で防げる菌類である。
ズルキフリ・ハサン食品調整担当相は「全国すべてのSPPGを対象に、規律・品質・人材の能力評価を実施する」と明言。食器の完全な殺菌、水質・廃棄物処理の改善を全拠点に義務付け、衛生手順の再徹底を指示した上で、問題の発生地域に限定せず、制度全体の「再教育」を進める姿勢を示した。
一方で、MBGの理念そのものは国民的な支持を得ている。国家栄養庁のダダン・ヒンダヤナ長官は「これは単なる社会プログラムではなく、2045年の黄金世代に向けた人的投資だ」と強調。2025年の予算はすでに13.2兆ルピアに達し、年末には76.4兆ルピアに膨らむ見通しだという。MBGを通じて児童の出席率が70%台から95%へと向上したことも報告されており、教育・健康両面での波及効果は明らかだ。しかし、制度の成功をアピールして拡大を進める裏で、地方はその弊害に悩んでいる部分もある。政府は2026年までに8,290万人への食事提供を目標に掲げるが、地方SPPGの人員や設備はその規模に見合っていない。食材調達や冷蔵設備、廃棄物処理などのインフラ整備も地域間で大きな格差があり、急速な拡大が安全性の確保を難しくしている。現場の「実績優先」の風潮が、本来最も重要であるはずの品質管理を盲点にしたと言えるだろう。
さらに、食中毒の多発は単なる衛生問題にとどまらない。制度への信頼を損ねるリスクがある。保護者の間では「子どもたちの安全を最優先に」という声が高まり、プログラムの一時停止や抜本的な監視強化を求める動きも出ている。
政府側は、MBGは止めずに改善しながら進めるとの立場を維持しているが、再発防止の仕組みが機能しない限り、巨額の国家投資が国民不安へと転化しかねない。
MBGは未来への希望と同時に、制度の成熟度を試す鏡でもある。制度開始以来、栄養の少なさや偏り、食材の供給源やルートなど多くの問題点が指摘されているが、食の安全は単なる一項目ではなく、最重要で取り組むべき課題であり、またそうでなければいけないはずだ。76兆ルピアという巨額の使途としての正当性は、最終的に安全で安心な子供を育てる一皿の中でしか証明されない。政府が今、求められているのは拡大ではなく、信頼を取り戻すための徹底した足元の再構築である。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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