ジャカルタの交通渋滞は、もはや都市の欠陥ではなく名物である。朝夕の通勤ラッシュ時は言うに及ばず、昼間でも車列が微動だにしないことは日常茶飯事だ。世界の渋滞都市ランキングで常に上位に名を連ねるこの街で、人々は怒りよりも諦観を選んだ。そして同時に、驚くほどしたたかに稼ぐ知恵を編み出してきた。その象徴が、渋滞の隙間に生きる行商経済である。
車が止まれば、人も止まる。人が止まれば、時間が生まれる。ジャカルタの行商人は、その時間を見逃さない。信号待ちの数分間に、ペットボトルの水、コーヒー、パンや揚げバナナ、花や雑貨まで提供する。バイクの間を縫って現れ、青信号とともに消えていくその姿は、もはや都市機能の一部だ。警察が取り締まろうとしても、渋滞という構造そのものが彼らを必要としている。近年、この行商経済はさらに進化している。特筆すべきはデジタル決済の浸透だ。QRコードを首から下げ、現金を持たないドライバーにも対応する行商人が増えている。スマートフォン一つで支払いが完了するため、お釣りを計算する必要もない。利便性の面では、下手なコンビニよりも優れていると言っていい。渋滞が“歩かない商店街”へと変貌する瞬間である。
ここには、インドネシア社会特有の柔軟さがある。都市計画が追いつかず、公共交通の整備も遅れる中で、人々は制度に頼らず自らの生活を最適化してきた。行商人の多くは地方出身者であり、正規雇用に就けなかった人々でもある。彼らは渋滞を嘆く側ではなく、渋滞を資源として利用する側に回った。その姿は逞しいが、同時にこの都市が抱える格差構造を静かに浮かび上がらせる。
一方で、行政の視線は複雑だ。行商は交通の妨げになるとして排除対象になりやすい。しかし、行商が消えれば、渋滞が解消するわけではない。むしろ、車内で身動きが取れない人々の不便が増すだけだ。結果として、取り締まりは一時的で、行商人は数日後に戻ってくる。このいたちごっこは、都市が非公式経済に依存している証拠でもある。日本と比較すると、この光景は対照的だ。日本では慢性的な渋滞は行政が早急に対処すべき問題でもあり、行商が車道に入り込む余地はほとんどない。利便性は整備されたインフラが担い、そこに個人が割り込む隙はない。しかしジャカルタでは、人がインフラの欠陥を補完している。効率性という点では未熟だが、人間の適応力という意味では極めて慣熟されている。
もちろん、この行商スタイルを美談として語るのは拙速に過ぎる。危険性、衛生面、労働の不安定さといった問題が事実として山積している。だが、それでも渋滞列の行商人が消えないのは、渋滞が生む「需要」が確実に存在するからだ。皮肉なことに、都市の弱点が人々に仕事を与えている。また、この行商経済は単なる個人商売にとどまらない。SNSで販売場所や時間帯を共有し、渋滞情報アプリと連動して“稼げる道路”へ移動する者もいる。偶然に見える路上販売の裏側には、意外なほど合理的で計算された行動が存在する。渋滞は無秩序ではなく、彼らにとっては予測可能な市場なのだ。
ジャカルタの大渋滞は、いつか解消されるのかもしれない。しかしその日が来たとき、この路上経済もまた姿を消すだろう。渋滞の中で生きる行商は、未完成な都市が生んだ一時的な知恵であり、同時にこの街のリアルな顔でもある。進歩とは何か、便利さとは誰のためのものか。その問いを、行商人たちは今日も排気ガスの中で、行政よりも雄弁に突きつけている。
あとがき
今年も1年間有難うございました。
皆さまお体に気をつけて、良いお年をお迎えください。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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※本レポートは筆者の個人的見解であり、PT. Japan Asia Consultantsの公式見解を示すものではありません。