インドネシアの首都移転計画ほど、実際の進捗状況が見えづらい国家事業も珍しい。ニュースを追えば壮大な完成予想図が次々と現れ、折にふれて大統領や閣僚が視察に訪れている様子が分かる。しかし、現地発信の映像を見れば広大な土地に完成したかのように見えるいくつかの建物と重機が点々とあるだけに映る。人々は完成図を何度も見せられるうちに、あたかも都市が既に存在しているかのような錯覚に陥る。だが、現実は当初の予定からどれぐらい遅れているのかも分からない“建設中”である。
新首都ヌサンタラは、国家の未来を象徴するプロジェクトとして掲げられてきた。渋滞、過密、地盤沈下といったジャカルタの課題を一挙に解決する希望の都市である、と公式には説明されている。だが国民の反応は一様ではない。都市部の若年層は「未来志向でよい」と評価する一方、地方の住民は「本当に必要なのか」と首を傾げる。期待と不服が同じテーブルに並んでいるが、どちらにも箸をつけない“無関心”が少しずつ増えている状態である。しかし、この光景はどこか既視感がある。地方創生、再開発、万博、そして数々の大型公共事業。完成予想図の美しさと完成時期の曖昧さは、国境を越えて共通の構図でもある。政治家は未来を語り、国民は現在の生活費を気にする。この温度差こそが、どの国でも大型計画が持つ宿命なのだろう。
インドネシアの世論が興味深いのは、「反対」よりも「様子見」が多い点である。声高に批判する層も存在するが、大半は静観している。完成すれば評価し、頓挫すれば忘れる。熱狂と無関心の中間に位置するこの態度は、ある意味で非常に現実的だ。国の計画に感情を消耗するより、自分の生活を優先するという合理主義である。だが同時に、それは政治にとって最も都合のよい環境でもある。強い支持も強い反対もなければ、進めるも止めるも自由だからだ。
企業の動きもまた象徴的である。未来都市の完成を見越して投資を検討する企業と、様子見を決め込む企業がくっきりと分かれる。前者は「先行者利益」を狙い、後者は「確実性」を重んじる。どちらも合理的であり、どちらも間違いではない。結果が出るのは数年後、数十年後である。ただ、皮肉なのは最も具体的なのが完成予想図であり、最も抽象的なのが完成時期である点だ。未来都市の建物はガラスの1枚まで丁寧に描き込まれているのに、いつ人が住み都市として機能するのかは濃い霧の中にある。人々は完成図をスマートフォンで拡大し、実物の進捗は遠目で眺める。視覚的な進行と物理的な進行が逆転しているのだ。
それでも、この計画を失敗と切り捨てるのは早計である。国家が未来像を描くこと自体は必要であり、都市は計画なくして生まれない。問題は、計画が希望を生むのか、希望が計画を正当化しているのかという順序である。インドネシアの首都移転は、その境界線の上に立っている。国民は夢を見せられているのか、夢を共有しているのか、その判断をまだ保留している状態だ。結局のところ、ヌサンタラは都市であると同時に鏡でもある。政府の理想、企業の計算、国民の期待と不安が映し出される巨大な鏡だ。そこに映るのは未来の街並みだけではない。国という存在が、どれだけ未来を信じ、どれだけ現在に縛られているかという姿である。完成図はいつも完璧で、現実はいつも“途中”である。この差分こそが国家プロジェクトの本質なのだろう。首都移転という超大型国家プロジェクトであるにも関わらず、国民はどこか他人事のように“移転”ではなく“成功するかどうか”を待っている。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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