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五感を刺激するインドネシア (第1回)
「インドネシアの色、音、香り、味、手触りを探して」

2024. 03. 5 | その他

はじめまして!今日から毎月第2、第4週目の火曜日に連載をする武部洋子と申します。現地企業、日系企業などの勤務をいくつか経て、現在はフリーランスのライター、コーディネーター、通訳、翻訳などを行っています。読者の皆様の中には、私の著書であるオレンジ色の本『旅の指さし会話帳 インドネシア語』をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。おかげさまで、1998年の刊行から現在に至るまで、実に四半世紀以上も版を重ねてまいりました。ジャカルタ在住歴は約30年。インドネシアとの付き合いもすっかり長くなりました。「なぜインドネシアに?」と聞かれることも多いので、今回はまず、そのお話をしましょう。

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小さいころ『宝島』、『15少年漂流記』、シャーロック・ホームズシリーズなど、胸高鳴る冒険気分が味わえる本が大好きだった私は、雑誌の編集者だった父がオーストラリア、ヨーロッパ、アフリカなどを取材で訪れるのを見て育ちました。おのずと海外にあこがれるようになったわけですが、神奈川県の中学、高校時代には、主に音楽や映画の影響で、どちらかというと欧米志向の強い自称「ロンドン少女」でした。それが高校時代のある時、両親の本棚から手に取って読んだある本に衝撃を受けます。沢木耕太郎さんの『深夜特急』です。

…混沌としたアジアがかっこいい!ゾクゾクする!アジアを知りたい!

そう思ったときにはまだ「インドネシアのイ」の字も頭の中にはなくて、あったとしても「インドのイ」だったと思います。『深夜特急』の沢木さんも、インドネシアには寄っていませんよね。高校生だったので、とにかくまずはアジア研究に強い大学に進もうと思い、調べた結果、上智大学文学部新聞学科に入学しました。上智では第二外国語としてタガログ語、タイ語などアジアの言語がいろいろあったんですが、さてどれにしようかと考えた時、講義のスケジュールにぴったりはまる唯一の選択肢がインドネシア語だった。そこがロンドンからバンドンへの運命の分かれ道。1988年のことです。

幸い当時のインドネシア語教員には、そうそうたる顔ぶれがそろっていました。『インドネシア・スンダ世界に暮らす』、『エビと日本人』の村井吉敬先生。偉大なる小説家プラムディヤ・アナンタ・トゥールの作品を数々和訳されている押川典昭先生。『バタオネにおまかせ バタオネのインドネシア語講座』のバタオネ先生。中でも村井先生は、毎週木曜夜に「インドネシアべんきょう会」という、インドネシア好きが集まって、毎回メンバーがそれぞれの得意分野について話すという会も主宰されていました。そういった先生方、そこに集まる方々との刺激的な交流を通じて、もともとは「首都がジャカルタでバリ島がある」くらいの認識しかなかったインドネシアに対する私の興味がますます深まっていきました。

初渡航は1990年。インドネシア人の彼がいた友人と、彼の田舎であるチアンジュールに行った後、一人でバスでジョグジャカルタ、鉄道でスラバヤ、バスでバリ、フェリーでロンボク島まで行きました。1991年から1年間は、インドネシア政府教育省の奨学金を得てバンドンのパジャジャラン大学に語学留学。帰国後もインドネシアのことが頭から離れず、卒業を確認すると、式にも出ずにそのままジャカルタに飛びました。インドネシアのポップカルチャー(音楽、映画、ファッションなど)に興味があったので、そういったことを調べて書くフリーライターになりたいと思ったのです。

そこからの話はまあ、長くなるので割愛します。もしかしたらいつか別の記事で触れることもあるかもしれません。とにかくそれ以来、私はまだここにいて、本も出して、こんな文章を書いています。

なぜそこまでインドネシアを好きになったのか。ひとつには、長く住み、年齢と経験を重ね、交友関係も深まるにつれ、幅広い情報も入手できるようになり、インドネシアのいろいろな面を知ることができるからかと思います。そういう意味では、たまたま私がインドネシアにいたからそうなっただけで、もし私が日本に住んでいても、欧米に住んでいても、同じような想いはあるでしょう。

私がバックパッカーを気取っていた大学生の頃は、バリを避けていました。なぜなら、みんなが行ってるから。無駄にとんがってたんですよね。それが最近ようやく、バリの魅力の奥深さがわかってきました。先日訪れたのはバリの北海岸にあるレス村のレストラン。空港からだと車で4時間くらいかかる場所にあり、最低8名からの完全予約制。その予約は2日前にならないとできない(村の宗教、慣習行事などがいつあるかわからないから)という、なかなか難易度の高いお店です。私と友人たちは、絶対そこに行きたいという意志のもと、日付を決めて、運よく2日前に予約がとれた時点ですぐにバリ行きのフライトをとりました。

バラクーダ、まぐろ、たこ、豚肉、地鶏、バナナの茎、椰子からとれた油、酢、砂糖、海の塩など、すべて地元の食材で調理したバリ料理の数々。壁には35%から45%のアラック(蒸留酒)が仕込んである大きな古い壺がずらりと並んでいます。デザート後は、ショットグラスで各種アラックの利き酒タイムです。足元には残り物を期待する子犬、空には満月。

“Masakan Nusantara itu kaya sekali. Kaya akan bahan, kaya akan filosofi, kaya akan jenis… itu luar biasa”

(インドネシアの島々の料理は実に豊かです。食材といい、世界観といい、種類の豊富さといい。とにかくすばらしい)

>このレストランについての動画 SUPPERCLUB: Bali | NOWNESSより、料理人ジェロさんの言葉。この連載では、毎回印象的なインドネシア語とその訳(時に超訳)を引用していきたいと思います。

         

      かまどのようす                               アラックの壺

連載のタイトルは『五感を刺激するインドネシア』。私が行った先、食べたもの、読んだ本、観た映画、聴いた音楽、会った人などをご紹介していきます。もしかするとそれは、常に素敵で楽しいことばかりじゃないかもしれません。甘かったり、苦かったり。静かだったり、うるさかったり。つるつるだったり、ザラザラだったり。

それもこれも全部含めて、もっと知りたいインドネシアだから。

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<武部洋子> 東京生まれ。大学で第二外国語としてインドネシア語を選択して以来、インドネシアにどっぷりはまる。1994年に卒業と同時にジャカルタに移住、2013年にはインドネシア国籍を取得。職を転々としたのち、現在はフリーランスのライター、コーディネーター、通訳/翻訳業に従事している。著作に『旅の指さし会話帳②インドネシア』(株式会社ゆびさし)など。

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メールアドレス okoyrocks@gmail.com