大塚 玲央
バリ島の寺院で寄付箱の横にそっと添えられたQRコードを見つけたとき、思わず二度見した。神々に捧げられる供物や祈りに囲まれた荘厳な空間に、ふと現れた日常の買い物でよく使うデジタル決済の幾何学模様。その光景は、伝統と現代が並列ではなく“衝突”しているようにすら見えた。とはいえ、キャッシュレス化の流れは止めようもなく、むしろ宗教儀礼の領域へも自然に浸透しているのが今のインドネシアである。
インドネシアのキャッシュレス普及率は東南アジアでトップクラスだ。市場でも屋台でも、チップさえもデジタル決済が受け入れられつつある。ジャカルタの若者の間では「財布を持ち歩くのは古い」との考えが浸透し、スマートフォンこそ生活の“分身”であると考えている節さえある。そんな社会動向を受け、寺院がキャッシュレス化を導入するのは必然だったと言える。
しかし、ここでひとつの違和感に気づく。確かに、多くの観光客や若年層が現金を細かく持ち合わせなくなった昨今、寄付をしたくてもできないという不便な状況が生まれていたというのは理解できる。しかし、逆に言えば、宗教的行為ですら“ユーザーエクスペリエンス”に配慮しなくてはならない時代になったということだ。宗教が最新のデジタルマーケティングに取り込まれつつある、と揶揄してみてもあながち間違いではない。さらに興味深いのは、寄付の“可視化”である。各々が祈りを込めた現金を寄付する。どれだけ入ったかは箱を開けるまで分からない。そんな従来の形から、デジタル決済では即座に履歴が残る。 神への祈りや気持ちがデータベースに登録され、可視化されるという状況に複雑な感情を抱く人もいるのではないだろうか。祈りに数値や履歴は不要だったはずが、今では祈りがビッグデータの一部として吸い上げられてしまうのだ。
一方で、現地住民の反応は案外落ち着いている。「便利なら使えばいい。伝統は変わるものだ」とバリ人の友人は語る。確かに、同島の文化は外部の影響を巧みに取り込みながら発展してきた歴史がある。観光と共存するために祭礼のスケジュールを調整したり、衣装を現代向けにアレンジしたりと、柔軟性は折り紙付きだ。彼らにとって、QRコードが伝統的な空間に置かれることも、思ったほど異物ではないのかもしれない。しかし、文化の変化は往々にしてゆっくりと進む。誰も反対しないうちに、寺院の景観は少しずつ現代化されていく。石像や供物の横に、堂々とQRコードが貼られる。そんな風景が日常になったとき、それを“伝統の進化”として受け入れるべきなのか、それとも“静かな喪失”と捉えるべきなのか、意見は割れるだろう。
もちろん、決済の形態が変わったからといって、信仰そのものの価値が揺らぐわけではない。祈りの本質は、送金方法とは無関係である。しかし、宗教空間までもが利便性を優先する姿勢を見ると、現代社会が私たちに求める利便性がどれほど強い圧力を持っているか、あらためて実感する。宗教儀礼は最も保守的で、最も変化しにくい領域と考えてしまっていた。バリ島の寺院に並ぶQRコードは、その“変化の痕跡”を象徴的に見せつけている。その姿が、違和感と同時に不思議な調和も生んでいるのは、伝統とは本来、外部からの刺激を吸収しながら静かに形を変えてきたものという証左なのかもしれない。QR決済はその最新の“刺激”にすぎない。
変わることを受け入れる柔軟性こそ文化を生かし続ける鍵なのだと、このQRコードが静かに教えてくれている。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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