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よもやまノンキインドネシア (第11回)
「幼き目に映る命の重さ 犠牲祭がもたらす教えとは」

2026. 05. 26 | その他

この時期、牛や山羊がトラックに載せられている姿や道端の柵に繋がれている姿を目にする。犠牲祭が近づいてきたことを感じるワンシーンである。

インドネシアではIdul Adha(イドゥル・アドハ)と呼ばれる犠牲祭。イスラム教の宗教行事で、ハッジ巡礼の集大成とも位置付けられている重要な一日である。毎年ヒジュラ暦第12月の10日に行われるが、レバラン大祭同様に西暦だと毎年約11日ずつ早くなる。巡礼に行かない者も含めてこの日に何をするか、それは動物を犠牲として神に捧げる儀式をモスクなどで行うのである。当日が近づくにつれ、モスクには牛や山羊が集まってくる。これは基本的には金銭に余裕のある地域住民やその地域に関係している人が、家畜商から購入してモスクに寄贈した家畜である。ここにもイスラム教の「喜捨」の考えが息づいている。富める物が自らの財産を家畜に替え、貧しき者の生活の一助となる。喜捨が住民の関係性強化や地域の活性化などに一役買っている一例でもある。

以前当地の日系企業で活躍されていたある社長は、毎年この時期になると会社の近隣地域に牛を寄贈していた。そこには、地域住民と異文化への尊重が込められていたことは想像に難くない。一般的に、その地域の文化を尊重せず、我が物顔で闊歩するような外様には、地域住民の間に自然と嫌悪感が生まれる。実際に地域住民の理解を得られず淘汰されていったケースもある。そんな中でもこの社長は、地域住民のみならず社内でも慕われるリーダーであり、尊敬の念に堪えない人格者であった。当然その企業は、地域住民からの理解のもとにいまも繁栄を続けている。

さて、犠牲祭当日になるとモスクでは集まった人々の目の前でと畜が始まる。“そのとき”を察知した動物が暴れだす中、慣れた手つきの男たちがあっという間に押さえつけてとどめを刺すと、鮮血が噴き出す。思わず目を背けたくなるような光景だが、動物が苦痛を感じる前に終わらそうとする思いやりの姿勢もみてとれる。犠牲となる動物に対してのせめてもの誠意だそうだ。集まった子供の中には直視できない子もいるが、その多くが目をそらさずに見ている。そのいたいけな瞳に映る生死の現場は、命の重さを知るための貴重な教材であろう。と畜が終わると女性たちによって肉が小分けにされ、貧しき人や周辺住民に分け与えられたり、その場で調理されて振る舞われたりする。イスラム教徒にとって地域が協力して行う一大行事なのである。イスラム教徒ではなくても、近くのモスクに見に行くのは自由であるし、余っているようなら肉を受け取ることもできる。

犠牲祭では犠牲的な精神はもちろん、誠意や忍耐、分かち合いの大切さなど五感を通して学ぶことができるだろう。動物の命を奪うその瞬間を幼い子供に見せることに対する適否に対しては、賛否両論あって然るべきだと思うが、私感としてはその後の人生観に少なからず影響を及ぼす稀有な経験になり得ると思う。
インドネシア在住という貴重な経験の中で、1年に1度の犠牲祭を見られる機会はそう多くない。今年は2026年5月27日(水)である。

<大塚 玲央>

1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。

大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com

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※本レポートは筆者の個人的見解であり、PT. Japan Asia Consultantsの公式見解を示すものではありません。