インドネシアが、単なるコーヒー生産国にとどまらず「カフェ大国」として世界の頂点に立ったという話は、いかにも現代らしい響きを持つ。グローバル・ポイント・オブ・インタレストのデータベースによると、2025年11月時点でインドネシア国内のコーヒーショップ数は約46万店に達し、世界1位である。2位中国(約19万店)、3位米国(約15万店)を大きく引き離した結果であり、この数字だけ見れば、確かにインドネシアは「コーヒー文化の中心地」と呼ぶに足る存在である。(ちなみに、日本は7.5万店で8位)
しかし、この手の「世界一」という称号には、いつの時代も一抹の違和感が付きまとう。数が多いことは、果たしてそのまま豊かさや成熟を意味するのか。むしろ逆に、「増やしやすい構造」の結果である可能性も否定できない。数字は雄弁であるが、ときに都合よく沈黙もする。実際、ジャカルタやバンドゥンといった都市部では、カフェはすでに生活の一部として定着している。若者たちはノートパソコンを広げ、友人と語らい、あるいは何もせずに時間を過ごす。そこではコーヒーそのものの味以上に、「居場所」としての機能が重視されている。近年では抹茶などのメニューも人気を集めているが、それは飲料の多様化というより、カフェという空間の拡張に過ぎない。要するに、人々はコーヒーを飲みに来ているのではなく、そこにいる自分を“楽しむために”に来ているのである。
さらに踏み込めば、この爆発的な店舗数の裏には、参入障壁の低さという現実がある。カフェは比較的小規模でも始められ、初期投資も他業態に比べれば抑えやすい。その結果、似たようなコンセプトの店が乱立し、そして静かに消えていく。46万という数字は、成功の証というよりも、挑戦と撤退の積み重ね、すなわち市場の新陳代謝の総量と見るべきであろう。皮肉なことに、数が増えれば増えるほど、一店舗あたりの個性は埋没しやすくなる。内装は洗練され、写真にはよく映るが、味や体験において決定的な差異を見出すのは難しい。コーヒーは主役の座を降り、空間演出の小道具へと後退しつつある。人々は一杯の味を記憶するのではなく、その場で撮影した一枚の画像を持ち帰る。文化とは本来、蓄積されるものであるはずだが、この場合は消費と同時に蒸発しているようにも見える。かつて日本でも、空間やブランドを消費する文化が急速に広がった時期があった。ただし日本の場合、その後に品質やサービスの細部へと価値基準が移行していった経緯がある。対してインドネシアは、いまなおスピードと量の段階にある。「まず増やす」という戦略は合理的ではあるが、その次に重要なものを捉えきれていないようにも感じる。
もっとも、この状況を単純に批判するのもまた的外れである。新しいビジネスが次々と生まれ、若者が機会を得ているという事実は否定できない。失敗を前提に挑戦が繰り返される市場は、停滞よりもはるかに健全である。慎重さを美徳としてきた社会から見れば、このダイナミズムが眩しく映るのもまた事実である。
結局のところ、「世界一のカフェ数」という称号はゴールではない。それは単なる通過点であり、むしろここからが本題である。数の競争が一段落したとき、どれだけの店が残り、どれだけの文化が積み重なるのか。その選別の過程こそが、本当の意味での豊かさを浮き彫りにする。カフェはこれからも増え続けるだろう。しかし、人がそこに座る理由は一つではない。コーヒーを味わうためか、時間を潰すためか、それとも誰かに見られるためか。その曖昧さこそが、このブームの正体である。数が文化を証明するのか、それとも文化が数を淘汰するのか。その答えはまだ定まっていない。少なくとも現時点では、この国のカフェ文化は、まだ“抽出の途中”にあると言うべきであろう。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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