2025年のノーベル平和賞は、ベネズエラの反体制派活動家で野党指導者のマリア・コリナ・マチャド氏に授与された。彼女は長年にわたり独裁政権下で民主的権利を訴え続けた勇気ある政治家である。ノーベル委員会のフリードネス委員長は、マチャド氏は命を狙われながらも「その選択が数百万に勇気を与え続ける存在である」と称賛し、独裁からの公正かつ平和な移行を実現するために立ち上がったことが受賞に繋がったと語っている。
一方、インドネシアの国営医療保険機関「BPJS Kesehatan (クセハタン)」が、英国コベントリー大学平和安全保障センターの推薦により、2025年のノーベル平和賞候補に挙がっていたことが明らかになった。同機関のアリ・グフロン・ムクティ代表が明らかにしたもので、インドネシアの団体がノーベル賞の候補に挙がるのは、独立以来初めてだという。
BPJS Kesehatanは、全ての国民が最低限の医療を受けられることを目指す、インドネシアの国民皆保険制度の中核を担う機関だ。その理念の根底にあるのが「ゴトン・ロヨン」すなわち相互扶助の精神である。ムクティ代表は「平和とは、人々が尊厳を保ちながら医療サービスを受けられることでもある」と語り、医療とは単なる公共サービスではなく、人間の尊厳を支える社会の基盤であり、平和の条件そのものであると強調している。この制度の特徴は、富裕層が貧困層を、健康な人が病人を、若者が高齢者を支えるという、社会的連帯の仕組みを国家レベルで制度化している点にある。多くの途上国が医療格差に苦しむなか、BPJSは人口2億7,000万人を超える多民族国家インドネシアで、平等な医療アクセスを実現する挑戦を続けてきた。その理念がまさに平和の実現に対する実践として評価されたのだろう。
こうしたBPJSの取り組みは、単なる医療制度の整備ではない。実際、医療アクセスの拡大は単なる健康改善にとどまらず、多くの波及効果を内包している。治療費の負担が軽減されることで、貧困の連鎖が断ち切られ、雇用や生産性の向上にもつながる。人々が安心して働き、教育を受け、家庭を築ける社会。それこそが暴力や不平等の根を断つ「構造的平和」の土壌となる。BPJS Kesehatanは、そのモデルを現実の政策として実践しているのだ。
ただ、ノーベル平和賞の候補者や推薦理由は公式には50年間非公開とされている。したがって、BPJS Kesehatanが正式にノミネートされていたかを実際に確認する術はない。そもそも平和賞と社会保障制度の結びつきに疑問を抱く向きもあるだろう。しかし、近年のノーベル平和賞は国家間の友愛や軍縮にとどまらず、教育、気候変動、ジェンダー平等、貧困削減など、人間の安全保障全般に対象が広がっている。医療アクセスを通じて社会的安定を築くBPJSの活動は、そうした時代の潮流に沿うものだ。そうした「日常の平和」を守る仕組みを築く21世紀の平和構築の最前線という見方なのかもしれない。BPJS Kesehatanのノミネートが事実であれば、インドネシア発のこの制度が国境を越えて注目され始めた証である。
今回受賞したマチャド氏の闘いは「自由のための平和」と言えるだろう。一方、BPJSが体現するのは「団結のための平和」だ。どちらも平和の異なる側面を照らし出しており、相互に矛盾するものではない。戦争を止めることだけが平和ではない。人々が互いに助け合い、命と尊厳を守る社会を築くこともまた、ひとつの平和なのである。BPJS Kesehatanの挑戦が、世界に「共に生きる平和」の新しい形を示すことを願ってやまない。
<大塚 玲央>
1987年長野県生まれ。親の仕事の関係で幼少より転校を繰り返し、高校時代はシンガポールで過ごす。大学卒業後、放送局や旅行代理店勤務を経て現職。2011年よりインドネシア在住。趣味ゴルフ、野球。
大塚 玲央 メールアドレス:reo.fantasista@gmail.com
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