作成者:渡邊 陸斗
インドネシアに駐在されている皆さまは、インドネシア映画をご覧になったことはございますでしょうか。
日本からストリーミングサービスを通じて視聴できる作品の多くはホラー映画であり、「なぜインドネシアにはこれほどホラー作品が多いのか」と疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれません。実際、インドネシアではホラー映画が市場を席巻しており、2024年に公開された国内作品のうち約60%をホラー映画が占めています。日本でも近年「悪魔の奴隷」シリーズを契機として、インドネシア産ホラーへの注目が高まってきました。インドネシアのホラー作品は、イスラム文化を背景に持つため、ハリウッド作品とは異なる新鮮な恐怖を味わえる点が特徴です。登場する幽霊や怪物の造形もインドネシアの文化特有であり、有名な幽霊で映画で度々登場する「ポチョン」はインドネシア独自の埋葬習慣に基づいたものとなっています。
こうしたホラー映画の人気の背景には、インドネシアの文化的要素が深く関わっています。インドネシアでは、幽霊や超常現象といった目に見えない存在を信じる人が多く、日本よりもその傾向が強いと感じられます。特に黒魔術や白魔術を信じる人々は世代や年齢を問わず幅広く存在しています。身内に不幸や病気、特に精神疾患が生じた場合、その原因を「誰かが黒魔術をかけたからだ」と考えることも珍しくありません。科学や医療の発展によって超常現象の多くに説明がつけられる現代において、こうした価値観は日本人には理解しづらい部分もあるでしょう。
インドネシアで黒魔術や白魔術が根付いている背景には、イスラム教が広まる以前の土着信仰が基盤にあり、そこにヒンドゥー教・仏教・イスラム教といった多様な文化が複雑に絡み合っていることが挙げられます。特にヒンドゥー教徒が多いバリ島では、ジャワ島以上に黒魔術・白魔術の影響が強く、呪術師によるまじないや伝統儀式も今なお残っています。さらに、隣国パプアニューギニアやインドネシアのパプア州では、日常生活における呪術の存在感がより強いとされています。
ジャワ島には今も「ドゥクン(Dukun)」と呼ばれる祈祷師が存在しており、彼らは黒魔術だけでなく、悪魔祓いや占い、予言、さらには病気の治療までも担うと信じられています。その影響力は一般市民にとどまらず、政治家や官僚にも及び、選挙などの重要な局面で祈願や予言を依頼する例もあるそうです。
ドゥクンという呼称は大きな総称であり、その役割によって細分化されます。例えば、医療行為や出産の補助を担う者は「ドゥクン・バイ(Dukun bayi)」や「ドゥクン・ジャンピ(Dukun jampi)」と呼ばれる一方、呪術を用いて相手を害する者は「ドゥクン・サンテット(Dukun Santet)」と呼ばれます。これらは伝統的に世襲され、知識や技術は口伝で受け継がれています。ドゥクンとなるためには、山や滝、墓地などで修行を行う特別な儀式を経る必要があります。沖縄に存在する「ユタ」も霊山での修行や世襲式であることなど共通点が多く見られます。
話は変わりますが、皆様が黒魔術と聞いて思い浮かべたのは何でしょうか?私たちに馴染み深い日本の呪術であれば、藁人形、丑の刻参り、ネット怪談においてはコトリバコが有名です。日本では人を苦しめる、または死に至らしめるような概念である呪術が近しい概念かと思いますが、インドネシアでは黒魔術の定義は広義であり、おまじないに関しても定義に含まれています。
ドゥクンが使用する黒魔術には下記のような物があります。
- ゲンダム(Gendam):休息ができなくなる黒魔術
- ナルガ(Naruga):相手の心に思いを植え付ける黒魔術で、用途によっては 特定の人への恋愛感情を持たせることや殺意を持たせること ができるとされています。
- サンテット(Santet):慢性の下痢にさせる黒魔術
- シレップ(Sirep):相手を深い眠りに陥らせる術
- テゥヌン(Tenung):頭痛、嘔吐、病気に悩ませる術
などがあります。日本の呪術よりも事細かな黒魔術がある一方、下痢や頭痛など、病気の初期症状や頻繁におこる症状が黒魔術でかけられるとされています。科学や医療が発展していない時代においてドゥクンのようなシャーマンはその時代では解明ができなかった病気や現象に対する一つの回答として人間が作り出した職業であり、「医療のルーツ」であると捉えることもできます。
現代においても現代科学で説明のできない現象の答え合わせとして依然として霊媒師や占い師などが存在しますが、未来ではこのような職業もまた別の職業になっているかもしれません。